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第10話  指先まで来た言葉

last update publish date: 2026-09-03 19:00:17

 土曜日の朝、七時に目が覚めた。

 昨夜十時に寝たから、九時間眠ったことになる。こんなに長く眠ったのは、いつぶりだろう。身体が重い。でも昨日までとは違う重さだった。疲労が抜けていく途中の、じんわりとした重さ。

 達哉はまだ寝ていた。

 土曜日は達哉の起床が遅い。九時か十時まで寝ていることが多い。その間の二、三時間が、週の中で一番静かな時間だった。

 沙耶はそっとベッドを抜け出して、キッチンへ向かった。

 コーヒーを入れながら、今日やることを頭の中で整理した。神崎への修正データの最終確認、彩乃の構成案の仕上げ、カフェのロゴ。そして──佐伯への返信。

 コーヒーカップを両手で包んで、ソファに座った。

 窓から朝の光が入ってくる。柔らかくて、まだ角のない光。昨日とは違う目で、同じ部屋が少し違って見えた。

 今日は、ちゃんと考えよう。

 佐伯のことを。

 スマートフォンを開いて、佐伯からのメールをもう一度読んだ。

 昨日は虚しさで閉じてしまったメールを、今朝は最後まで読んだ。

岸谷さん、進捗どうですか。

依頼してから一週間経ちますけど、

まだ何も来てないんですが、大丈夫ですか。

納期守ってもらえますよね?

プロなんだからそのくらい当然ですよね。

 読み終えて、沙耶はしばらくスマートフォンを持ったまま考えた。

 三万円。修正無制限。「プロなんだから当然」を二度。

 一つ一つは、それだけを取り出せば対処できる。でも全部が重なると、これはただの条件の問題ではない気がした。この仕事を続けていくと、どうなるか。修正を出すたびに「まだ違う」が来て、納期が近づくたびに「ちゃんとやってるんですか」が来て、最終的に「思っていたのと違う」で終わる。

 そういう仕事を、沙耶はこれまでにも経験してきた。

 終わった後に残るのは、報酬でも達成感でもなく、ただの消耗だった。

 断ろう。

 今朝は、その言葉がすんなり出てきた。

 昨夜の睡眠が、何かを変えたのかもしれない。母の「断っていいんだよ」が、眠っている間に沈んで、朝になって浮かび上がってきたのかもしれない。

 理由はわからないけれど、今朝の沙耶には「断ろう」という気持ちがあった。

 メールアプリを開いた。返信画面を出した。

 指が、動き始めた。

 佐伯様

 お世話になっております、岸谷です。

 ご連絡いただきありがとうございます。

 今回の件ですが──

 そこで、止まった。

 今回の件ですが、誠に申し訳ございませんが──

 また、止まった。

 頭の中では「お断りします」という言葉がある。はっきりと、ある。でもそれを画面に打ち込もうとすると、指が止まる。

 紹介してくれた人に、何て言うんだろう。

 それが最初に来た。紹介元は沙耶の古いクライアントだった。悪い人ではない。善意で繋いでくれたはずだ。その人に「断りました」と伝わったとき、どう思うだろう。

 途中で投げ出した、と思われるかもしれない。

 次に来たのは、それだった。まだ初稿の途中だ。受けておいて途中でやめるのは、無責任ではないか。

 でも、続けても——

 続けた先の消耗が、目に見えていた。

 沙耶は画面を見たまま、動けなかった。

 断ろうと思った気持ちは、今もある。でもそれを言葉にしようとすると、別の言葉が次々と塞いでくる。迷惑をかけたくない、印象を悪くしたくない、無責任だと思われたくない。

 全部、誰かの目線だった。

 自分がどうしたいか、ではなく、誰かにどう見られるか。その軸で判断している。それに気づいたとき、沙耶は少し疲れた。

 これも、癖なんだろうな。

 謝ることが呼吸になっていると気づいたときと、同じような感覚だった。誰かの目線で動くことが、いつの間にか自分の判断の基準になっている。

 スマートフォンを、一度置いた。

 コーヒーを飲んだ。冷めかけていた。

 三十分後、もう一度スマートフォンを取り上げた。

 返信画面はまだ開いていた。途中で止まったままの文章が、そのままある。

 沙耶はもう一度、指を動かした。

 佐伯様

 お世話になっております、岸谷です。

 ご連絡いただきありがとうございます。

 今回の件ですが、誠に申し訳ございませんが、

 諸事情により——

 また、止まった。

 諸事情、って何だろう。

 理由を濁そうとしている自分がいた。本当のことを言えない。でも嘘もつきたくない。だから「諸事情」という言葉で曖昧にしようとしている。

 それは、正直ではなかった。

 沙耶はまた、文章を消した。

 三度目の返信画面。

 今度は、少し違う書き方をしてみた。

 佐伯様

 お世話になっております、岸谷です。

 ご連絡ありがとうございます。

 現在、他の案件が重なっており、

 佐伯様のご要望に十分にお応えできる状況ではないと判断しました。

 誠に申し訳ございませんが、今回は辞退させていただけますでしょうか。

 ご不便をおかけして、大変申し訳ございません。

 岸谷沙耶

 書き終えた。

 読み返した。

 送信ボタンの上に、指を置いた。

 押せるか。

 心臓が、少し速くなった。たかがメール一通だ。でも沙耶には、この送信ボタンが、とてつもなく重かった。

 押したら、何かが変わる気がした。

 良い方向に変わるのか、悪い方向に変わるのか、まだわからない。でも──変わる。

 指が、ほんの少し震えていた。

 押せ。

 自分に言い聞かせた。

 押していい。これは、正しい判断だ。

 でも──指は、止まった。

 止まったまま、三十秒が経った。

 一分が経った。

 沙耶は、ゆっくりと指を画面から離した。

 送信ボタンは、押せなかった。

 スマートフォンを伏せて、窓の外を見た。

 朝の光は、もう少し角度を変えていた。時間が経っている。

 今日は、無理だった。

 自分を責める気持ちは、不思議となかった。

 今朝の自分は、ここまでだった。断ろうと思って、文章を三回書いて、送信ボタンの手前まで来た。それだけでも、先週の自分より少しだけ前に進んでいる。

 一週間前の沙耶は、断ることを考えもしなかった。

 今朝の沙耶は、考えた。書いた。指先まで来た。

 次は、押せるかもしれない。

 根拠のない確信ではなかった。ただ、今朝の自分を見ていて、そう思った。断る言葉は、もう沙耶の中にある。あとは──それを外に出すだけだ。

 今日ではないかもしれない。

 でも、いつかは。

 昼前、達哉が起きてきた。

 「コーヒー、ある?」

 「入れるよ」

 沙耶はキッチンに立った。コーヒーメーカーに豆をセットしながら、今朝のことを思った。三度書いて、三度消して、一度だけ送信ボタンの手前まで来た。

 達哉はソファに座って、スマートフォンを開いている。

 「今日、どこか行く?」と達哉が言った。

 「特に予定はないけど」

 「じゃあ昼飯、外で食べるか」

 珍しい提案だった。沙耶は少し驚いて、「うん」と答えた。

 悪くない、と思った。

 今日の午後は、仕事から離れよう。佐伯への返信は、月曜日に考える。神崎への修正は、今日の夕方に改めて確認する。全部を今日中に片付けなくていい。

 今日は、少しだけ休む。

 その判断が、今朝の沙耶には自然にできた。

 コーヒーの香りが、キッチンに広がっていった。

 夜、布団に入りながら、沙耶は今日一日を振り返った。

 佐伯への返信は、まだ送れていない。でも文章は、もうある。

 指先まで来た言葉は、消えていない。

 明日か、明後日か──必ず送る。

 目を閉じた。

 今夜は、昨夜より少し軽い気持ちで眠れる気がした。

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