LOGIN土曜日の朝、七時に目が覚めた。
昨夜十時に寝たから、九時間眠ったことになる。こんなに長く眠ったのは、いつぶりだろう。身体が重い。でも昨日までとは違う重さだった。疲労が抜けていく途中の、じんわりとした重さ。 達哉はまだ寝ていた。 土曜日は達哉の起床が遅い。九時か十時まで寝ていることが多い。その間の二、三時間が、週の中で一番静かな時間だった。 沙耶はそっとベッドを抜け出して、キッチンへ向かった。 コーヒーを入れながら、今日やることを頭の中で整理した。神崎への修正データの最終確認、彩乃の構成案の仕上げ、カフェのロゴ。そして──佐伯への返信。 コーヒーカップを両手で包んで、ソファに座った。 窓から朝の光が入ってくる。柔らかくて、まだ角のない光。昨日とは違う目で、同じ部屋が少し違って見えた。 今日は、ちゃんと考えよう。 佐伯のことを。 スマートフォンを開いて、佐伯からのメールをもう一度読んだ。 昨日は虚しさで閉じてしまったメールを、今朝は最後まで読んだ。 岸谷さん、進捗どうですか。 依頼してから一週間経ちますけど、 まだ何も来てないんですが、大丈夫ですか。 納期守ってもらえますよね? プロなんだからそのくらい当然ですよね。 読み終えて、沙耶はしばらくスマートフォンを持ったまま考えた。 三万円。修正無制限。「プロなんだから当然」を二度。 一つ一つは、それだけを取り出せば対処できる。でも全部が重なると、これはただの条件の問題ではない気がした。この仕事を続けていくと、どうなるか。修正を出すたびに「まだ違う」が来て、納期が近づくたびに「ちゃんとやってるんですか」が来て、最終的に「思っていたのと違う」で終わる。 そういう仕事を、沙耶はこれまでにも経験してきた。 終わった後に残るのは、報酬でも達成感でもなく、ただの消耗だった。 断ろう。 今朝は、その言葉がすんなり出てきた。 昨夜の睡眠が、何かを変えたのかもしれない。母の「断っていいんだよ」が、眠っている間に沈んで、朝になって浮かび上がってきたのかもしれない。 理由はわからないけれど、今朝の沙耶には「断ろう」という気持ちがあった。 メールアプリを開いた。返信画面を出した。 指が、動き始めた。 佐伯様 お世話になっております、岸谷です。 ご連絡いただきありがとうございます。 今回の件ですが── そこで、止まった。 今回の件ですが、誠に申し訳ございませんが── また、止まった。 頭の中では「お断りします」という言葉がある。はっきりと、ある。でもそれを画面に打ち込もうとすると、指が止まる。 紹介してくれた人に、何て言うんだろう。 それが最初に来た。紹介元は沙耶の古いクライアントだった。悪い人ではない。善意で繋いでくれたはずだ。その人に「断りました」と伝わったとき、どう思うだろう。 途中で投げ出した、と思われるかもしれない。 次に来たのは、それだった。まだ初稿の途中だ。受けておいて途中でやめるのは、無責任ではないか。 でも、続けても—— 続けた先の消耗が、目に見えていた。 沙耶は画面を見たまま、動けなかった。 断ろうと思った気持ちは、今もある。でもそれを言葉にしようとすると、別の言葉が次々と塞いでくる。迷惑をかけたくない、印象を悪くしたくない、無責任だと思われたくない。 全部、誰かの目線だった。 自分がどうしたいか、ではなく、誰かにどう見られるか。その軸で判断している。それに気づいたとき、沙耶は少し疲れた。 これも、癖なんだろうな。 謝ることが呼吸になっていると気づいたときと、同じような感覚だった。誰かの目線で動くことが、いつの間にか自分の判断の基準になっている。 スマートフォンを、一度置いた。 コーヒーを飲んだ。冷めかけていた。 三十分後、もう一度スマートフォンを取り上げた。 返信画面はまだ開いていた。途中で止まったままの文章が、そのままある。 沙耶はもう一度、指を動かした。 佐伯様 お世話になっております、岸谷です。 ご連絡いただきありがとうございます。 今回の件ですが、誠に申し訳ございませんが、 諸事情により—— また、止まった。 諸事情、って何だろう。 理由を濁そうとしている自分がいた。本当のことを言えない。でも嘘もつきたくない。だから「諸事情」という言葉で曖昧にしようとしている。 それは、正直ではなかった。 沙耶はまた、文章を消した。 三度目の返信画面。 今度は、少し違う書き方をしてみた。 佐伯様 お世話になっております、岸谷です。 ご連絡ありがとうございます。 現在、他の案件が重なっており、 佐伯様のご要望に十分にお応えできる状況ではないと判断しました。 誠に申し訳ございませんが、今回は辞退させていただけますでしょうか。 ご不便をおかけして、大変申し訳ございません。 岸谷沙耶 書き終えた。 読み返した。 送信ボタンの上に、指を置いた。 押せるか。 心臓が、少し速くなった。たかがメール一通だ。でも沙耶には、この送信ボタンが、とてつもなく重かった。 押したら、何かが変わる気がした。 良い方向に変わるのか、悪い方向に変わるのか、まだわからない。でも──変わる。 指が、ほんの少し震えていた。 押せ。 自分に言い聞かせた。 押していい。これは、正しい判断だ。 でも──指は、止まった。 止まったまま、三十秒が経った。 一分が経った。 沙耶は、ゆっくりと指を画面から離した。 送信ボタンは、押せなかった。 スマートフォンを伏せて、窓の外を見た。 朝の光は、もう少し角度を変えていた。時間が経っている。 今日は、無理だった。 自分を責める気持ちは、不思議となかった。 今朝の自分は、ここまでだった。断ろうと思って、文章を三回書いて、送信ボタンの手前まで来た。それだけでも、先週の自分より少しだけ前に進んでいる。 一週間前の沙耶は、断ることを考えもしなかった。 今朝の沙耶は、考えた。書いた。指先まで来た。 次は、押せるかもしれない。 根拠のない確信ではなかった。ただ、今朝の自分を見ていて、そう思った。断る言葉は、もう沙耶の中にある。あとは──それを外に出すだけだ。 今日ではないかもしれない。 でも、いつかは。 昼前、達哉が起きてきた。 「コーヒー、ある?」 「入れるよ」 沙耶はキッチンに立った。コーヒーメーカーに豆をセットしながら、今朝のことを思った。三度書いて、三度消して、一度だけ送信ボタンの手前まで来た。 達哉はソファに座って、スマートフォンを開いている。 「今日、どこか行く?」と達哉が言った。 「特に予定はないけど」 「じゃあ昼飯、外で食べるか」 珍しい提案だった。沙耶は少し驚いて、「うん」と答えた。 悪くない、と思った。 今日の午後は、仕事から離れよう。佐伯への返信は、月曜日に考える。神崎への修正は、今日の夕方に改めて確認する。全部を今日中に片付けなくていい。 今日は、少しだけ休む。 その判断が、今朝の沙耶には自然にできた。 コーヒーの香りが、キッチンに広がっていった。 夜、布団に入りながら、沙耶は今日一日を振り返った。 佐伯への返信は、まだ送れていない。でも文章は、もうある。 指先まで来た言葉は、消えていない。 明日か、明後日か──必ず送る。 目を閉じた。 今夜は、昨夜より少し軽い気持ちで眠れる気がした。十一月の終わり、打ち合わせは午後二時からだった。 神崎のオフィスに着くと、チームの二人はすでに席についていた。沙耶が入ると、「お疲れ様です」と声がかかった。 三ヶ月前、初めてここに来た日には、この部屋の空気に少し緊張した。今日はそれがなかった。 「始めましょうか」と神崎が言った。 新ブランドのターゲット設定について、沙耶が用意してきた案をもとに、一時間ほど議論した。チームの意見が出て、神崎が整理して、沙耶がまた言葉を足す。その往復が、今日はよく機能していた。 打ち合わせが終わって、チームの二人が席を外した。 神崎がコーヒーを二つ持ってきた。 「少しいいですか」 「岸谷さんは」と神崎は言った。「どんなブランドを作りたいですか。自分自身の、という意味で」 仕事の延長線上にある質問だった。 でも沙耶には、その問いが仕事の外側まで届いた。 「……考えたことが、なかったです」 正直に言った。 「そうですか」 「自分が作りたいもの、というより、相手が必要としているものを考えてきた気がして。クライアントが何を求めているか、どう応えるか──そちらに、ずっと意識が向いていたので」 神崎はコーヒーカップを両手で持って、少し考えるように間を置いた。 「それは強みでもある」 「強み」 「相手を見
珍しいことだった。 「今日、遅くなる」 朝、達哉がそれだけ言って出ていった。何時になるかは言わなかった。沙耶も聞かなかった。 扉が閉まって、鍵がかかる音がした。 午前中は、神崎から送られてきた資料の確認をした。 新ブランドのターゲット設定について、神崎がいくつかの案を出していた。沙耶はそれぞれにコメントを書き込みながら、自分の考えを整理した。 誰に届けるか。誰を選ぶか。 神崎の言葉が、作業の中にまだ生きていた。 午後になって、沙耶は好きな音楽をかけた。 いつもはイヤホンをつけて作業する。達哉がいると、音が気になると言うから。でも今日は一人だったから、小さなスピーカーから流した。部屋に音楽が広がった。それだけのことが、少し特別に感じられた。 夕方、小腹が空いたので、冷蔵庫にあったチーズと、クラッカーを出した。 夕飯の時間を気にせずに食べた。 達哉がいる日は、夕飯の時間が決まっている。七時までには食卓に出す。それが暗黙のルールだった。誰かが決めたわけではなかった。でも七時を過ぎると、達哉の機嫌が少し変わった。だから沙耶は六時半には台所に立っていた。 今日は、その時間が来ても台所に立たなかった。 七時になった。 クラッカーをもう一枚食べながら、資料の続きを読んだ。 八時を過ぎた頃、沙耶は一人でご飯を食べた。 冷蔵庫にあったもので、簡単に作った。味噌汁と、卵焼きと、残
誕生日当日は、土曜日だった。 午前中、沙耶は仕事の作業を一段落させてから、スマートフォンを手に取った。達哉はリビングにいた。沙耶は寝室に移って、扉を閉めた。 実家に電話するのに、扉を閉める必要はないはずだった。でも今日は、閉めたかった。 呼び出し音が三回鳴った。 「はい」 母の声だった。 「お母さん、お父さんいる?」 「いるよ、ちょっと待って」 受話器が置かれる音がした。遠くで「宏幸さん、沙耶から」という母の声が聞こえた。それから少し間があって、足音が近づいてきた。 「ああ」 父の声だった。電話口の父はいつも、最初の一言が「ああ」だった。 「誕生日おめでとう」 「……ああ」 二つ目の「ああ」は、最初のものより少し低かった。照れているときの声だ、と沙耶は知っていた。 しばらく、沈黙があった。 父との電話は、いつもこうだった。沈黙が長くて、言葉が短い。慣れない頃は、何か話さなければと焦った。今は──この沈黙の中に、ちゃんと父がいることがわかるから、焦らない。 「プレゼント、送ったよ。届いてる?」 「届いてる」 「気に入ってもらえるといいんだけど」 「……使う」 そ
父の誕生日は、十一月の終わりだった。 沙耶は一人でデパートへ行った。 達哉には「出かけてくる」とだけ言った。どこへ、とは言わなかった。父の誕生日だから、と説明することもできた。でも──説明しなかった。 説明する必要がなかったから、という理由が、今の沙耶には自然に出てくるようになっていた。 平日の午後、デパートの中は人が少なかった。 沙耶はエスカレーターを上りながら、父に何を贈るかを考えた。毎年、この時期になると考える。毎年、答えを出すのに時間がかかる。 父は欲しいものを言わない人だった。 聞いても「何もいらない」と言う。「何でもいい」とも言わない。ただ「何もいらない」と言って、それ以上話さない。だから沙耶はいつも、父が何を好きかを思い出しながら、売り場を歩く。 今年は何にしよう。 紳士用品のフロアを歩きながら、沙耶は父のことを考えた。 無口な人だった。家族の中で一番、言葉が少なかった。食卓でも、リビングでも、父の声が聞こえる時間は短かった。でもその分、たまに言う言葉が、妙に重かった。 「無理すんな」と電話口で言われたとき、沙耶は泣いた。五文字だった。それだけで、泣いた。 どうして五文字で泣けるんだろう、と思いながら泣いた。 ハンカチの売り場の前で足が止まった。父はハンカチをよく使う。いつもズボンのポケットに入れている。布製の、柄のないもの。沙耶が子どもの頃、転んで膝を擦ったとき、父はそのハンカチで血を拭いてくれた。何も言わずに、しゃがんで、丁寧に拭いた。 沙耶はハンカチを三枚
画面の向こうで、神崎が資料を開いた。オンライン打ち合わせの背景は、いつもと同じオフィスの一角だった。本棚と、白い壁と、観葉植物の端。余分なものが映り込まない角度を、この人はいつも選んでいる。「今日は少し、僕の話をしてもいいですか」神崎が言った。議題の確認よりも先に、そう切り出した。「もちろんです」「ブランドの言葉を作るとき、僕がまず考えることがあって」「はい」「そのブランドを、嫌いな人は誰か、ということです」沙耶はペンを持ったまま、少し止まった。「嫌いな人、ですか」「そうです」と神崎は言った。表情は穏やかだった。「好きになってくれる人を考えるより、先に」「それは──なぜ」「全員に好かれようとすると、誰の心にも届かない。言葉が丸くなりすぎて、触れても何も感じないものになる」神崎は資料のページをめくった。「誰かに届けようとするとき、その誰かを選ぶことが必要です。選ぶということは、別の誰かを選ばないということでもある。それを恐れると、ブランドは輪郭を失う」沙耶はメモを取った。誰かを選ぶことが、誰かを救うことになる。書きながら、手が少し止まった。「岸谷さんは、これまでのクライアントワークで、そこを意識したことはありましたか」神崎に聞かれて、沙耶は少し考えた。「……意識していなかったと思います。届けたい人を考えることはあっても、届けなくていい人を考えたことは、なかった気がして」
思ったのは、特別な瞬間ではなかった。木曜日の午後、寝室の隅のデスクで作業をしていたときだった。神崎から送られてきたブランドの資料を開いて、コメントを書き込もうとした瞬間、達哉が部屋に入ってきた。「あ、ごめん、邪魔した?」「大丈夫」と沙耶は答えた。 達哉は特に何をするわけでもなく、クローゼットから何かを取り出して、また出ていった。それだけのことだった。 でも沙耶は、達哉が入ってきた瞬間に画面から目が離れたことに気づいた。集中が、糸を切られたように途切れた。達哉が何も言わなくても、その気配だけで、沙耶の思考は一度止まった。 作業部屋があったら、と思った。思ってから、その考えが思ったより自然に出てきたことに、少し驚いた。その夜、夕飯の片付けが終わった後、沙耶は達哉に話した。「ねえ、ちょっといい?」「なに」達哉はソファに座ったまま、スマートフォンを置いた。話を聞く体勢になった。それは悪くない兆候だった。「仕事部屋、作ってもいいかなって思って」「仕事部屋」「今、寝室のデスクで作業してるんだけど、集中できなくて。納戸を片付けたら、デスクくらい置けるんじゃないかと思って」達哉は少し考えるような間を置いた。「どこに作るって?」「納戸」「俺の荷物があるけど」「片付けるの、手伝うよ。段ボールに入れて、押し入れに移せば──」「別に今のままでいいじゃん」それで、終わった。







